スタッフ紹介staff

副院長 榎本泉
副院長略歴
1997年 日本歯科大学卒業、歯科医師国家試験合格、日本歯科大学附属病院臨床研修医
1998年 日本歯科大学歯学部附属病院歯科矯正学講座入局
2005年 同附属病院小児・矯正歯科 助手
2007年 東京都歯科衛生士専門学校講師
2008年 同附属病院退職
2009年 榎本歯科医院勤務
所属学会・資格
日本矯正歯科学会、アメリカ矯正歯科学会、日本顎関節学会
2003年 日本矯正歯科学会認定医取得
2008年 日本矯正歯科学会認定医更新(1回目)
2013年 日本矯正歯科学会認定医更新(2回目)
2018年 日本矯正歯科学会認定医更新(3回目)
参加研修
2007年 臨床歯科矯正学研修会専門医コース 診断・治療学編 (IDS-GINZA)
2009年 臨床歯科矯正学研修会専門医コース SWA編(IDS-GINZA)

幼少の頃

私は神奈川県川崎市の多摩地域で生まれ育ちました。当時、家の近くには梨畑やいちご畑があり、また小高い山が連なる緑あふれた自然豊かな地域でした。2歳年上の兄の後を追いかけ、バッタやクワガタなどを採り、ある時はスズメを捕まえようとワナをしかけたり(1回も成功しませんでした)、木登りをするなど男の子がするような遊びばかりしていました。

おままごとなどしたことがなく、初めて友達の家に遊びに行ったとき「お人形さんごっこをしよう。」と言われて、どのようにすればいいのか分からず戸惑った思い出があります。また父の実家が静岡県の伊東でしたので、よく海水浴や海釣りをしました。今では考えられませんが、生きたゴカイを釣り針に自分でつけてキスやハゼなどを釣りました。

日に焼けて真っ黒になるくらい外で遊ぶのが大好きでしたが、一方で母の勧めもあり、3歳の頃から兄にならってヴァイオリンやピアノを習い始めました。ピアノはその後、大学受験まで続けることになります。

小学生の頃

小学校1年生の頃、父が矯正治療を専門とする歯科医院を開業しました。母はその診療所の手伝いにほぼ毎日出かけていたので、私たち兄妹はいわゆる「鍵っ子」となりました。兄と遊びながら、時に喧嘩をしながら両親の帰りを待っていました。ただピアノの練習はもちろん、水泳や絵も習っていたので、放課後は何かしら忙しく過ごしていました。時折、兄と二人で父の診療所まで電車を乗り継いで行くことがありました。

診療所では、普段、目にすることのない器具や透明のケースに収められている数百ものキラキラとした小さなつぶつぶ(今考えると矯正装置でした)を見ては、「きれいだなぁ。」とワクワクしたことを覚えています。

小学校低学年の頃からは週に1回、「子供のための音楽教室」という、音楽全般を学ぶ教室に通うようになりました。そこでは、ピアノはもちろんのことコーラスやフルートなどの授業がありました。厳しいクラス分けのテストもありましたが、私にとって音楽に触れることは楽しい時間であり日常生活の一部でごく当たり前のことでした。特にコーラスの授業ではいくつかのパートに分かれて歌うのですが、自分がその曲を作り上げている一員だと思うと、その責任と出来上がる音の重なりに胸が高鳴りドキドキしながら歌ったものです。

私は当時の公立小学校では珍しく、中学受験することにしました。ピアノを引き続き習いながら、塾に通い始めました。算数塾と国語塾です。どちらも80名くらいの個人塾で週に1回テストがあり、その場で点数が発表され教室の前の方から成績の良い順に着席してくという、なかなかプレッシャーのかかる塾でした。塾の先生が、最前列に座る超難関校を目指している生徒に「よく頑張っているなぁ。」と優しく言葉をかけているのを目にし、私もいつか前の方に座りたいと思いながら一生懸命に勉強をしました。その結果、第一志望には落ちてしまいましたが、第二志望校である中高一貫教育の女子校に進むことになりました。

中学~高校生の頃

この学校では第二外国語としてフランス語の授業があり、また礼法や倫理の時間、奉仕活動など特色のあるキリスト教の学校でした。毎朝、心を落ち着ける「祈りの時間」から始まり、「ごきげんよう」という言葉が私たちの日常の挨拶でした。部活は6年間、茶道部に在籍しました。もともと体を動かすのが好きでしたので運動部に入りたかったのですが、ピアノの先生の「ケガをしたらどうするの。」という言葉もあり、少し興味のあった茶道部に決めました。6年生の学校なので、部活も12歳から18歳でと年齢幅が広い生徒が在籍し、入部した当初は先輩方を目にすると、ずいぶん大人な感じがして緊張したのを覚えています。

私が矯正医の道に進む大きなきっかけの1つは、中学生の頃に開始した矯正治療でした。いわゆる八重歯で歯がデコボコでした。主治医はもちろん父です。小さい頃に目にした、あのキラキラとした装置をようやく歯につける時がきたのです。治療を開始した当初は、歯がしめつけられるような痛みで父にずいぶん文句を言いましたが、治療が進んでいくと慣れたこともあり文句を言う回数は少なくなったように思います。そして1年半ほど経ち装置をはずす日、初めて歯がきれいに並んでいるのに気がつきました。装置をつける前は歯の重なりやねじれがあったのに、気がついたら歯が綺麗に一直線に並んでいるのです。これは衝撃的な出来事として私の中で印象づけられました。

高校にあがると文系か理系かを選択しなければなりませんでした。私は、「音楽の道に進みたい」という気持ちがある一方、小さい頃から目にしていた父の職業である歯医者にも興味をもっていました。進路を決めかねていた私は、音楽大学と歯科大学というまるで分野の異なる大学を受験することにしました。

その結果、音楽の道は断念し、歯科大学に進学することにしました。将来の道を決定づける大きな決断でした。

大学生

私は日本歯科大学に進学しました。歯科大学は6年生です。中~高校はピアノを習っていたので積極的に運動ができませんでしたが、もともと体を動かすことが大好きだったので、私は思い切って馬術部に入部することにしました。入部してみると、中高で感じたことと全く一緒で、今度は高校卒業したての18歳の私からみると6歳離れた先輩は24歳です。完全に大人である先輩方と一緒に行動をすると、その言動や振る舞いなどからいかに自分が子供であるかを痛感しました。「優雅」「お嬢さま」「高貴」なイメージのある馬術部でしたが、実際はホコリまみれになりながらの厩舎掃除、飼い付けがあり、合宿に至っては朝練で午前5時厩舎に集合など、想像していた優雅な部活生活とは異なり、とても過酷でした。6年間の部活動を通じて、仲間と力を合わせて物事を成していく過程や、馬という生き物がパートナーであるが故の苦労や喜びなど貴重な体験ができました。部活以外では勉強も含めて苦楽を共にした同級生と現在も連絡を取り合うなど、一生の友人を得ることができ私にとってはとても有意義な大学生活でした。

しかし、最終学年である大学6年生の後半に卒業試験が合計3回あるのですが、私にとっては最大のピンチが訪れたのです。3回すべての試験をパスできないと、国家試験が受験できないのです。そんな大切な卒業試験の真っただ中、相次いで二人の祖母を亡くしてしまったのです。心の準備ができていなかったので、とてもショックでしばらく勉強に集中できませんでした。でも、卒業がかかる大切な試験です。気持ちを何とか強く持ち、何がなんでも試験にパスしようと必死に追い込みをしました。そして1997年の春、国家試験に晴れて合格することができました。

歯科医師として

大学を卒業する頃には、私は歯科矯正学を専門的に勉強しようと決めていました。幼少の頃、父の働く姿を目にし「私も歯医者さんになりたい。」と思ったり、私自身が矯正治療を受けて「歯が動くってすごい!」と感じたりしました。が、それは漠然としたもので、歯医者や歯科矯正学がどのような面白みがあるものなのかは分かりませんでした。そのような時、当時、歯科矯正学の教授でいらっしゃった恩師の石川晴夫先生の講義を受けて、それまでの矯正に対する漠然とした思いとは異なり、はっきりと「歯科矯正学を詳しく勉強したい。」と思うようになったのです。

私は、石川晴夫先生のご指導を仰ぎたいと考え、母校の矯正科で専門的に勉強をすることにしました。矯正科では石川晴夫先生から直々に問題志向型という診断法について教えていただき、患者さんの持つ問題点を正確に把握することの重要性について徹底的に学ぶことができました。そして他の先生方からも理論から実際の治療に至るまで、多岐にわたりご指導いただきました。

大学病院時代、多くの患者さんを担当させていただきましたが、その後の私の矯正医としての志を決定づける患者さんとの出会いがありました。1人は、私が初めて担当した8歳の男の子です。生まれつきのお病気を持っており、歯医者にも長い間通院していました。私は初めて担当する患者さんに緊張していました。おそらくその緊張が伝わったのでしょう。小さな声で「あー、苦しかったぁ、、、」とつぶやいたのです。驚いて理由を聞くと、私が持っていた口の中を見るための小さな鏡を、「曇っちゃうと先生が見にくくなっちゃうから息を止めていたんだ。」というのです。私はハッとしました。緊張のあまり彼の口の中を見ることに集中して、患者さんの表情を見ておらず、そんな患者さんの優しい想いに気づけませんでした。「木を見て森を見ず」だったのです。この経験は、その後の私の歯科医師としての在り方に強く印象づけてくれました。もう1人の患者さんは、高校3年生の女の子です。初診時、彼女は伏し目がちで、私の問いかけにも頷くしかしませんでした。お母さまのお話しによると、彼女は歯並びが良くないことから強いコンプレックスを感じ、他の人との会話を避け、あまり笑わないとのことでした。お母さまはこれから社会生活を送っていけるのか心配して、社会人になる前にそのコンプレックスを解放してあげたい、と考えられたのでした。私は当初、矯正治療が彼女の性格や活動性をも変えることができるものなのか?、と思っていました。そんな心配は全く必要なかったのです。2年間の矯正治療の結果、彼女は別人といっても過言ではないほどに変わりました。治療を終えた彼女は、大きな口をあけて笑い、はきはきとしゃべり、そして伏し目がちであった目は、まっすぐ前を見つめ、力強いキラキラとした瞳になっていたのです。きっと生活環境の変化などもあったと思いますが、矯正治療が進むにつれて、彼女は自信を取り戻したのです。私自身の治療が、彼女の変化を後押ししたのでは、ととても嬉しく思いました。机上の学びだけでなく患者さんを通して学ぶほどに、矯正学に対しさらに深く興味を持ち、同時に奥深さを知ることができました。患者さんに対してしてあげたいこと、患者さんの笑顔を作ること、私自身の夢も見つかり自分の目標が定まったときでした。

そして、これからも患者さんの生活を豊かにするサポートができますように日々研鑽をつみ、心を込めて治療にあたっていきたいと思います。